まずは自己紹介から。ボクはヒップホップを専門に文章を書いてきた批評家だ。もちろん、批評を読むのとヒップホップを聴くのが好き。他の趣味と言えば格闘技観戦で、好きなマンガのキャラは「バキ」の花山薫。自分でも驚く。この短い自己紹介に出てきた「ヒップホップ」も「批評」も「格闘技」も「花山薫」も、すべて「マッチョ」で「ホモソ」で「ミソジニー」なものだと指摘されてきたものだからである。正直に白状しておく。ボクは男性的なカルチャーで育ってきた人間だ。よくひとにも苦笑交じりに「男の子」的な人間だねと言われる。反論のしようもない。ちなみに、生まれ育った地元も今住んでいるのも、「さす九」と全国のみなさんにお褒めいただいている福岡県だ。 それなのに、どんな巡り合わせなんだか自分でも可笑しいが、最近ボクは初心者ながら少しずつ、少女マンガを読み始めている。少女マンガの面白さと出会い、またしばしば感嘆させられ、そしてなにより心を動かされている。この連載は、少女マンガについての連載ということになっているが、それは完全な門外漢による、徹底して非専門的なものにしかならないということをあらかじめ断っておかなくてはならない。つまり、みっともないまでに「男の子」的でしかあれないアラサーの男が、不器用ながらも少女マンガや女性カルチャーから何事かを学ぼうとする連載だ。
さて、どうしてボクは少女マンガを読もうと思ったのか。単なる思い付きではないし、ましてや冷やかしのつもりも一切ない。自分なりの必然性があった。連載第ゼロ回となる今回は、それを説明しよう。 ボクが直面しているのはひとえに、「他者の声を聞く」とはどういうことか、という問いである。男性は抑圧された女性やマイノリティの声を聞くべきである。よく言われることだ。でもそれが具体的にどういうことか、みんな本当にわかっているのだろうか。 たとえば、いまやどこのオフィスにもハラスメント防止を訴えるポスターが貼られていて、誰だってセクハラがダメだということくらい知っている。しかしそれを頭に入れただけで、本当に「他者の声」を聞いたことになるのだろうか。「有害な男性性」を抱えたまま、ハラスメントをしないことは可能だ。たとえば、会社で部下や女性社員と可能な限り関わらないようにするという、「リスク管理」的解決で問題を済ませている男性が多くいるとも聞く。たしかに、ハラスメントをしないでいてくれるのはありがたいが、表面的な解決策にとどまっている。ここでの問題は「他者理解」と「自己変容」が切り離されてしまっていることだ。「自己変容」を伴わずに「他者理解」に至ることなどありえないだろう。 他方、自らの男性性を有罪化し、男性性を可能な限り縮減しようとするひとびともいる。私は男性であり、マイノリティの足を踏む有罪な者であり、そのことを無限に反省している……というように。もちろん、それはそれで切実に必要なことである。これまでボクたちはそのことに本当に無自覚だったわけだから。しかし、そこでは男性性の消滅こそが最終目標にされているように見える。だが、それで本当に問題は解決するのか。あるいは本当にそんなことが可能なのか。彼はそこで、自己というものをあまりに簡単に放棄してしまってはいないか。自己(男)を消滅させることは、責任=応答の主体であるべき自己(男)を放棄することにしかならないのではないか。 この違和感を、こう図式化しよう。彼らはこう考えているようだ。男性性=有罪である、したがって、女性/マイノリティ=非有罪である、と。でもこれでは、かつて哲学者のニーチェが告発したような「道徳」の思考に陥ってしまっている。というのも、ここでは有罪という否定性がはじめにあり、さらにその否定性を否定するかたちで、女性/マイノリティが非有罪と、消極的に規定されているからだ。つまりこのような思考のあり方は、肯定から始まるのではなく、その逆に否定から始まっているという点で、賛同しかねるものなのだ。なぜなら、「他者理解」/「自己変容」はどこまでも肯定的な過程であるはずだから。ボクは有罪guilty/非有罪not guiltyという否定性によって規定されたコミュニケーションでは、真の「他者理解」/「自己変容」は不可能だと考える。 たしかに、ボクたちは生きている限りどこか有罪で、どこか非有罪である。ある時は加害者=有罪で、あるときは被害者=非有罪である。有罪な時は疚しくて胸が痛く、非有罪な時にかりそめの安堵感を得られるだけ。「道徳」の支配下にある時、ボクたちは罪の意識に振り回されて、不安に苛まれたオドオドとした生から抜け出せなくなってしまう。それを、ヴァルター・ベンヤミンという批評家の言葉を借りて、「罪の連関」の世界と言うことができる。ボクたちは有罪か非有罪かという「罪の連関」の、絶え間ない反転運動(弁証法)に閉じ込められ、翻弄されて生きている、とてもちっぽけな存在だ。 でも、つねに罪の意識に怯えているちっぽけな存在が「救済」される瞬間が、ボクたちの生には訪れることだってある。「罪の連関」の運動が一時停止し、宙づりにされる時間が。そのような「救済」の時、束の間ではあれ、ボクたちは、何にも引け目を感じず、怯えることもなく、真っすぐ素直に自分と他者と世界を肯定できるようになる。 その時、何が起きるか。ボクたちを縛っていた否定的で相対的な〈有罪/非有罪〉という尺度が廃棄され、その代わりにボクたちは肯定的で絶対的な〈無垢=無罪innocence〉に生成する。そして「他者理解」/「自己変容」が真に可能であるのは、この無垢=無罪である者同士のコミュニケーションにおいてのみだとボクは思う。 要約しよう。男性性を消滅させることは、男性としての応答可能性をも放棄することである。また、男性性=有罪という図式にとらわれたままでは、女性性/マイノリティ性を非有罪という否定的なものとしてしか、とらえることしかできなくなってしまう。そのような場所では真のコミュニケーションは不可能だ。だからボクはまず、自分の男性性と無垢=無罪の状態で出会い直すことを自分に許し、そのうえで無垢=無罪である限りでの他者と出会い直す必要性を感じる。そしてそのときにこそ、他者理解を通した男性性の自己変容が可能になるのではないか。 もしかしたら難しい話に聞こえるかもしれないが、もう少し続けよう(申し訳ないと思っているが、ボクは批評家であって、こうしたことを考えるのが本業なのだ)。では、無垢=無罪である者同士のコミュニケーションとはどのようなものなのか。それをボクは〈生の隠喩的理解〉という概念で考えている。手短に説明しよう。隠喩というのは単なる修辞技法にとどまるものではなくて、生や思考、認知そのものに深く関わるものだという考えがある。そしてそこでは、隠喩とは「あるものを通してこのものを理解する」ことだと定義される。たとえば、「情熱の赤いバラ」という隠喩においてひとは「赤いバラを通して情熱というものを理解している」(そして逆もまたしかり)というわけだ。 したがって、これを他者とのコミュニケーションに当てはめると、〈生の隠喩的理解〉とは、「他者を通して自分を理解すること」であり、また「自分を通して他者を理解すること」だと言える。それゆえまた、男性が少女マンガを読むというこの連載のテーマに即して言えば、男性であるボクが目指すのは「男性性を通して女性性を理解すること」/「女性性を通して男性性を理解すること」となる。 注意してみてほしい。ここでは、自然なかたちで「他者理解」と「自己変容」が同時になされるのだ。というのも、この隠喩的理解においては、他者理解と自己理解がセットになっており、自己が放棄されることはない。それでいて、女性性を理解すればするほどに彼は男性性を理解し、男性性をうまく解体/再構築し、自己変容する方法を見出すことになる。自己が自己になるほどに、彼は他者に開かれ、彼が他者に開かれるほどに、よりいっそう自分らしくなる。これが〈生の隠喩的理解〉とボクが呼んでいるものがもたらしてくれるプロセスである。 でも、なぜ少女マンガなのか。ボクはXで流れてくるマイノリティの主張の意味を理解し、賛同することができる。批評家なので、少々難解なフェミニズムの理論書を読みこなすこともできる。でも、それだけでは、「リアル」な他者理解/自己変容に至るには、何かが決定的に欠けているように、どこかでずっと感じてきた。おそらく、欲望という問題がそこに欠けていたのだ。 その時、ふとこう考えた。冒頭で述べたように、ボクはラップや批評が大好きだ。それはボクにとって、リアルな欲望にダイレクトに刺さってくる表現だったからだ。ならば、ボクがラップによって生きてきたように、少女マンガというリアルな欲望にかかわるカルチャーによって生きて、救われてきた人たちが大勢いるのではないか。あるいは、こうも想像してみる。もしボクが男性じゃなかったら、少女マンガに人生を狂わされたかもしれない。そんな世界線を生きていたら、ボクの人生はどうだったんだろうと。そして、少女マンガで育ってきたあなたがもし男性だったら、きっとボクと同じようにラップに人生を狂わされたかもしれないよ、ということをささやいてみたくもなる。 ボク自身と、そのような他者とのあいだで、隠喩的なコミュニケーションを試みることができないか。その過程で、ボクの欲望や男性性の変容が、少しずつではあれ、可能になるのではないか。いつしかそう考えるようになり、気づけば少女マンガに手を伸ばしていた。どこか男の自分にも響くところ、男の自分にこそ響くところ、男にはわからないけれどもどういうことだかもっと知りたくなるところ……。知ったふりはしないようにしよう。でも、はなから理解しえないと決めてかかることもしないでおこう。そう決めて読み始めると、手が止まらなくなった。
「なけない女のやさしい気持ちをあなたがたくさん知るのよ」(Chara「やさしい気持ち」)。この連載を始めるにあたって、はじめて聴いた時から、まるで呪いか導きの言葉のようにボクの頭に残っていた、一昔前のヒット曲の歌詞が思い出された。というのも、この歌詞は、ボクが男であることをあまりにリアルに突き付けてくるものだから。 女は泣きたい気持ちがあるけれど、泣かない。たしかに、泣けばあまりに明白に感情を示すことができる。泣くことはここでは、女の気持ちを男の言語へと翻訳することだからだ。しかしその翻訳の過程で、真に伝えるべき「やさしい気持ち」は決定的に失われてしまう。だから、涙を我慢するという迂回を選択する。そうすることで、彼女は、男が知るべきものを、隠すことを通して守り、保持する。男が知るべきものを、隠しながら守るという迂回こそ、真のコミュニケーションのための「女のやさしい気持ち」だ。だから男が知るべきことは、二重化されている。泣いてしまったら毀損され失われてしまう女の「なきたかった気持ち」と、「なきたかった気持ち」を守るために泣かなかった「やさしい気持ち」の二つである。 これは素晴らしいラブソングの一節だが、マジョリティがいかにマイノリティの声を聞くべきかについての教えであるようにも思えてならない。これからこの連載で、少女マンガをはじめとする女性カルチャー(少女マンガ以外にも、小説やエッセイ、音楽などについても機会があれば触れていこうと考えている)と向き合うための指針として、「他者の声を聞く」ための戒めの言葉として、胸に置いておこう。なけない者たちのやさしい気持ちを、ボクがたくさん知るために。そしてボク自身のやさしい気持ちに気づくためにも。