ボクは少女マンガを読むことに決めた

1 ボクたちは平行したままで愛を複製する──大島弓子

 大島弓子を読むといい。少女マンガというジャンルに引き寄せられたボクに、多くの人がそう言った。しかしながら、こうも言われているそうだ。男は大島弓子を分かりたがるが、男は必ずそれを誤解する。それでも男を吸い寄せてしまうような存在として、大島弓子は特別な位置にある作家であるらしい。

 だからボクは、まったく不安に思いながらページをめくり始めることになったのだったが、そこで気づいたのは、大島弓子という他者をどういう目で読み始めればいいのかということが、すでにその作品の中に書き込まれているのではないかということだった。

 恋をするとき、ひとは自分の作り出した幻想に恋しているだけかもしれない。「ローズティーセレモニー」 1 の静子は、典型的な恋する少女として、意を決して同級生の高太郎にラブレターを出すも、フラれてしまう。そんな高太郎は、学内でテスト制度を廃止する運動を開始するのだが、静子は恋心からか、それに献身的に協力する。そのとき静子は、優等生と思われていた高太郎が実は堕落した生活を送っているという噂を耳にする。そして実際に、彼が酒やたばこを嗜み、バイクで遊び、隣の大学生と同性愛の関係にあると知らされる。

 静子の抱いていた幻想は崩れる。けれども、その「ひどく誇張されたあそび」の裏には、高太郎が病にかかっていること、先が長くないかもしれない自分に恋してしまった静子を悲しませないために「あきらめさせる」意図があったことを知る。そうして二人は、テストを放棄し、プラカードを掲げテスト反対のシュプレヒコールを唱える。

 静子ははじめ、幻想としての高太郎に恋をした。次に幻想を壊してしまうような現実を目にした。高太郎は別の世界を持っていたのだった。けれど、その別の世界の現実を支える事情や状況を理解する。幻想と現実の矛盾を、事情や状況といったものに解体することで、高太郎を肯定できるようになる。そうして二人はたしかに「自由(リベルテ)」をそれぞれ手にし、そのフィーリングを共有するに至る。

 「自由」にたどり着くためには、いくつの罠を潜り抜けなければならなかっただろうか。幻想に固執してしまうこと。自分のそれとは別の幻想を排除しようとしてしまうこと。幻想を壊してしまう現実への恨みを持つこと。その反対に、自分を必ず裏切る幻想に対する復讐として、醒めた現実主義者になること。「ローズティーセレモニー」は、恋から始まり、これらの罠を潜り抜けて、自由の世界へと抜け出る物語だと言えそうだ。

 

 ボクたちは前回、無垢=無罪である状態への生成を目指すと言った。大島弓子作品の持つ澄み渡った高貴さは、まさにそのような目で世界と他者を描いていることに由来すると気づき、ボクは感動したものだったが、藤本由香里がそれを見事に「世界全体をゼロ地点に戻す」と表現していることを知った 。2

 無垢=無罪であるゼロ地点に立つために、大島弓子の登場人物たちは、世界の現働的な連鎖から離脱・免除されていることが多い。「四月怪談」3 の主人公は典型的である。彼女は一度死にかけ、幽霊になって肉体から離脱し、現実世界への影響力を失う。「そうゼロっていうのは/こういうのを/いうんだわ」。

 彼女は幽霊の世界で、百年前から自分の失われた肉体を探して漂う岩井弦之丞と出会い、幽霊の世界について教わりながら、幽霊の目で現実世界を見直す。現実に帰りたくないと思うのだが、決断をしなければならない。最後に主人公は、弦之丞を連れて二人で一つの肉体に入ることにする。世界のゼロ地点を見て、他者を連れて自分の肉体と現実世界に戻る。そうすることで、彼女は現実世界の喜びを知ることになる。「なにを見ても/なにをしても/奇妙に新鮮に/感じる」。

 『綿の国星』 4 のチビ猫もまた、無垢で無罪で自由な存在である。猫の目から人間の世界を見つめ、チビの目から猫の世界を見つめる。チビ猫は、猫の世界のことも、人間の世界のことも知らない存在であり、二つの世界を行き来しながら、世界について学ぶ。人間の感情、狩りの仕方、猫の世界の掟、海には噴水がないこと……。チビ猫は世界を純真に学ぶ存在であり、だからそこで他者たちは、それが人間でも猫でも、学ぶべき存在、教える存在としてあらわれることになる。

 ひとは学ぶ存在になるとき、おそらく無垢な目線でしか世界を見ない。またこうも言える。ひとは他者と無垢な状態で出会ったときには、学ぶ存在になる。学ぶべき世界は否定されえない。何かを学んだとき、ひとは、それに頷くだけだ。

 高太郎の学校での姿と、放課後の堕落した姿。肉体を持った生者の世界と、幽霊の世界。人間の世界と、猫の世界。大島弓子の作品では、しばしば二つの異なる世界が平行する。平行性の関係とは、二つの世界が没交渉のままで共存しているということであって、矛盾という関係とはまったく異なる。矛盾は解消されるべきもので、二つのものが矛盾の関係に至ってしまったなら、二つの世界のどちらかが勝利し、他を排除し、征服してしまうことになる。矛盾に至ってしまわないように気を配り、その手前で引き返すこと。多くの人はそれを知的な怠惰や道徳的な不徹底だとみなすが、むしろそれは一つの倫理なのだ。矛盾に引き裂かれて苦悩したりするのではなく、世界の平行性を保持し続けることに耐えることを知っている者たちの世界。

 

 世の物語の多くは、矛盾を原動力にする。正義と悪が戦い、正義が勝つ。そしてまた、恋の三角関係こそ、その典型だ。一人を手にできるのは、二人のうちのどちらか一人で、恋敵の二人は矛盾の関係に置かれる。大島弓子はその作品内で恋の三角関係をという物語論的クリシェを見事に脱臼させてみせるのだが、それはどのようにしてだろうか。

 思うに模倣とは学ぶ存在に許された原初的な手法であり、また平行的な関係にあるほかないボクたちに許された、「ゼロ地点」のコミュニケーションの可能性ではないだろうか。大島弓子の作品では、しばしば模倣のテーマが登場することに気づくのだ。ここでは三角関係の代わりに、相互の模倣という仕組みで物語が動いているように見える。

 『綿の国星』の時夫は、拾ったチビ猫とコミュニケーションをとるために、まねっこ遊びをしかける。チビ猫はそれが嬉しくて、二人は夢中で模倣の遊びに耽るのだが、人間の時夫には、チビ猫のように本棚から飛び降りることはできない。完全な同一化は不可能で、模倣にはいつか限界がくるけれど、模倣の連鎖が物語をゆったりとスムーズに推し進めることになる。

 時夫は、女学生の「ひっつめみつあみ」こと美津子に恋をする。チビ猫は、はじめ彼女を恋敵と思う。けれどもチビ猫は、ラフィエルという美しい猫に出会い、大きくなっても人間になることはできず(チビ猫は人間になることを夢見ていた)、むしろとびきりの美猫としての未来が待っていることを知らされ、美津子との恋のライバル関係は成立する手前で破棄される。

 それでも人間になる夢を諦めきれず、今度はチビ猫が人間を模倣する。人間用のそれでトイレをしようとし、手を使って食事をしようとするが、結果、家の中をめちゃくちゃに荒らしてしまって、時夫を怒らせてしまう。そうしてチビ猫は時夫のもとから逃走する。

 逃走したチビ猫を二人で一緒に探すことを通して、時夫と美津子の恋が進展する。二人の恋をアシストしたことに満足したチビ猫は、猫として生きようと再び時夫のもとから去ろうとする。

 恋する時夫はこう自問する。これまで世界は生彩が失われたものとして映っていた。そんな自分が、美津子の親切を素直に受け入れて、恋しているのはなぜだろうか。それは、あのチビ猫の「ガラス玉みたいな目」を通して、自分も世界を「すんなりすなおに」見ることを覚えたからではないか。こうして、時夫はチビ猫が自分に必要な存在だと気づく。

 時夫がチビ猫を模倣することで、チビ猫は時夫からの愛を受け取った。しかし同時にそのとき、模倣を通して時夫は「世界をゼロ地点に戻す」ようなチビ猫の目を知り、人を愛することができるようになっていた。チビ猫は二人の恋を応援し、人間二人はチビ猫をもっと愛するようになる。この過程のなかでは誰もが平行性を保っていて──チビ猫は「鳥は鳥に」「人間は人間に」「星は星」「風は風に」と独白する──にもかかわらずそれぞれが変容し、他者をもっと深く愛するようになり、それぞれがもっと自分らしくなっていく。

 「毛糸弦」5 というエピソード では、これと同型の物語が、男女が入れ代わったようなバージョンとして反復されている。美柑という少女は、オス猫のニャーニャを飼っている。ニャーニャは保護者のような目で美柑を見守っている。美柑は、学校に行きたくなくなり、人間をやめて猫になると言って、公園で猫の模倣をする。

 その猫になった姿を、三年の不良ハヤカワに見られていて、ハヤカワから接近されることになるのだが、その真意がわからず不気味で、美柑は迷惑に思う。その日の夜、美柑の家の外で、ニャーニャと、猫のようになったハヤカワが、二匹の猫がそうするように喧嘩をする。ハヤカワは不審者として通報され、警察から取り調べを受けてしまう。

 そこに美柑が現れ、自分が彼にニャーニャを捕まえてほしいと頼んだのだと警察に説明することで、ハヤカワを助ける。美柑の咄嗟の機転によって、ニャーニャとハヤカワの恋の対決が、ニャーニャを助けるハヤカワの愛にすり替えられ、やはり恋の三角関係は脱臼させられる。そこでハヤカワは、美柑が猫の模倣をしている姿を見て、彼女を映画に撮りたいと思ったのだという真意を打ち明ける。

 美柑は、ニャーニャの目に憧れて、猫になろうとした。猫は「より緻密に/この世のシャッターを/切りつづけるのだもの」。ハヤカワは、猫を模倣した美柑の目を映画として形に残したいと思った。「カメラは/あんた自身の/目になって」「銀幕に この世の/すべてのものがはっきりと/生き生きとかがやくんだ」。そのように語るハヤカワの目に、美柑も同調し、映画の計画に夢中になる。その過程で、ニャーニャはハヤカワに抱かれるのにも慣れていく。

 矛盾も所有も否定も知らない愛が、模倣による移植を繰り返して、自己増殖し、反復、複製、強化されていくだけの愛の緩やかな進展としての世界。これがボクが読んだ大島弓子で、そのような可愛らしくてラディカルな新世界を、他に見たことがなかった。

 

 ところで、ここまで書き終わってなおいっそう、ボクが大島弓子を分かりたがる男たちの二の舞になっていないかどうかは、まったく不安なままである。しかしながら、そうした男たちというのは、『綿の国星』を読むときに、時夫に感情移入しながら、「女性はチビ猫になって時夫に可愛がられたいという欲望を持っているのだろう」と考えているものらしいと知って、とてもびっくりした。そしてまた大島弓子を読む女性たちは、むしろ自分たちこそが、時夫に感情移入し、チビ猫を見守るようにして読んでいるとも言われているそうだ。それもまた意外だった。

 というのも、恥ずかしげもなく打ち明けるのだが、ボクが感情移入していたのはただチビ猫のみであって、ボクは自分のことをチビ猫のような人間だと信じて疑っていなかったのである。そして誰もがそう読むものだと思っていた。ボクは自分が男=人間である事実をあまりに都合よく忘れてしまっているのだろうか。もしかするとこれもまた、一つの男の症候なのかもしれない。それならば少なくともボクは、男を引き受けつつも、自ら猫になることを恐れなかった、ハヤカワのような男になりたいと思うのである。

 


 

Footnotes

  1. 1.大島弓子『四月怪談』、白泉社文庫、一九九九年

  2. 2.福田里香・藤本由香里・やまだないと『大島弓子にあこがれて』、ブックマン社、二〇一四年

  3. 3.同前

  4. 4.大島弓子『綿の国星①』、白泉社文庫、一九九四年

  5. 5.大島弓子『綿の国星③』、白泉社文庫、一九九四年

批評家:中村拓哉2026/06/01
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